利休 籠花入 銘桂川(りきゅう かごはないれ めいかつらがわ)
利休 籠花入 銘桂川 りきゅう かごはないれ めいかつらがわ 桃山時代 千利休-少庵-宗旦-山田宗徧- 山田宗徧 受筒・箱書・添文 |
無雑作にしかも荒く編まれた魚籠が、程よく使い込まれて鈍い光艶を放つ。利休は、桂川辺で、鮎漁の漁夫が腰に帯びた袋形の魚籠に目を止め、背面の程良い所に鉄鐶を付け、掛花入とした。胴をたっぷりと張らせて口を窄ませた、なんとも納まりの良い姿。底・胴・口辺と編み方が変化し、一方が僅かに膨らんだ変形にも、利休は眼を着けたか。むっくりとした形、ざっくりとした編目の味わいが、侘び小座敷の茶に相応しい風情。 二代少庵から、三代宗旦へと伝来。後、宗旦に永年師事した門下四天王の一人、山田宗徧が修業成り、宗旦に代わる茶道師範として江戸下向の際、「不審庵」の号と共に、この花入を承伝の印として授かる。拝領した宗徧の喜び様は尋常でなく、さながら印可状を貰った如くに大切にし、長々と由来を箱蓋裏に認めた。更に、黒塗の竹筒落としに「桂川」の銘と花押とを朱漆書した。これを本歌に、宗徧は写しを七つ作ったという。 宗徧は江戸に出て、吉良上野介の屋敷の茶事にも関わった。赤穂浪士の討ち入り事件では、討ち取られた吉良の首の代用として、この花入が風呂敷に包まれ、槍の先に刺されて赤穂浪士の道中に用いられたという。本物の吉良の首は、奪還されることを避けるために舟路で泉岳寺に送られ、赤穂浪士の行進には、布に包まれたこの花入が高々と差し上げられていた。この興味深い逸話は、現に籠の下辺に、槍幅ほどの繕い傷があることからも首肯される。 |
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