美術館の概要

美術を愛した村山龍平

 香雪美術館の「香雪」は、所蔵品の多くを蒐集した村山龍平(むらやま・りょうへい)の号です。

 村山龍平は嘉永3年(1850)、紀州徳川藩の支藩、伊勢田丸の城下(現在の三重県度会郡玉城町)で藩士村山守雄の長男に生まれました。父守雄は版籍奉還後、田丸城下を去り、明治4年(1871)、大阪に移り住みます。村山龍平は、翌5年に西洋雑貨を商う「田丸屋」を開業し、数年後には店を大きくして「玉泉舎」と改めました。

 西南の役を境に世情も落ち着き始め、明治12年(1879)1月、龍平29才の時に朝日新聞を創刊します。以後、共同経営者の上野理一らとともに発展に尽力し、日本を代表する新聞に育てました。

 美術にも深い関心を寄せ、岡倉天心達の主宰する美術雑誌『國華』の経営も引き受けています。開国後、多くの価値ある美術品が海外へと流出し始めると、それを食い止めたいという思いから美術品の蒐集に力を注ぎました。刀剣にはじまり、仏画、墨蹟、古筆などの名品の多くを大正に入るまでに集めました。

茶の湯の心深めて

 朝日新聞を創刊後、村山龍平は実業家達との茶の湯の交遊を通じ、近代の数寄者に名を連ねます。修めたのは藪内流の茶道。当初、藪内節庵に師事し、やがて竹翠(藪内家10代)、竹窓(同11代)について研鑽、「玄庵」の号を許されました。明治35年(1902)、朝日新聞の村山龍平、上野理一、藤田組の藤田伝三郎が発起人となり、大阪の実業界を中心に茶の湯の会「十八会」が生まれます。財閥の住友吉左衛門、豪商の殿村平右衛門、白鶴の嘉納治兵衛らの計18名が参加しました。

 日露戦争後は、明治41年(1908)、節庵を中心に「篠園会」が生まれ、十八会からは村山、上野、藤田の3人が加わりました。この会には、野村得庵や山口滴翠らも加わり、また家元の竹翠や竹窓を迎え、大谷尊由、住友春翠、三井高棟らを客員としました。こうした数寄者達は、蒐集の名物道具を取り合わせて互いに茶会を開きました。昭和8年(1933)、龍平翁が84歳で没するにあたり、竹窓家元から免許皆伝の証が贈られ、村山紹龍の名を得ています。このように茶の湯に深く心を染めたため、蒐集の茶道具にも数多くの名品が含まれています。

昭和48年に開館

 村山龍平の没後、学術的・美術的に価値ある蒐集品に対し、美術館設立の声が上がっていました。しかし、その後の社会経済の不安、第2次世界大戦の混乱などから実現は遅れ、昭和47年(1972)になってようやく、財団法人香雪美術館が設立されました。初代理事長、村山長挙(玉泉)蒐集の美術品を加えて、昭和48年(1973)11月に開館。以降、理事長は村山藤子、村山美知子と三代にわたります。

 平成22年(2010)11月、公益財団法人香雪美術館に移行し、文化財保存・活用事業と奨学金助成事業の2つの公益目的事業を進めています。

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